御法語
- 真光寺
- 2月1日
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今月の御法語を紹介いたします。
難易二道
浄土門というは、この娑婆世界を厭い捨てて、急ぎて極楽に生まるるなり。
彼の国に生まるる事は、阿弥陀仏の誓いにて、人の善悪を簡ばず、ただ仏の誓いを頼み頼まざるによるなり。この故に道綽は、「浄土の一門のみ有りて通入すべき路なり」と宣えり。されば、このごろ生死を離れんと欲わん人は、証し難き聖道を捨てて、往き易き浄土を欣うべきなり。
この聖道・浄土をば、難行道・易行道と名づけたり。譬えを取りてこれを云うに、難行道は険しき道を、徒にて行くがごとし。易行道は、海路を船に乗りて行くがごとしと云えり。
足萎え、目しいたらん人は、かかる道には向かうべからず。ただ船に乗りてのみ、向かいの岸には着くなり。
然るに、このごろの我らは、智慧の眼しい、行法の足萎えたる輩なり。聖道難行の険しき道には、惣じて望みを絶つべし。ただ弥陀の本願の船に乗りて生死の海を渡り、極楽の岸に着くべきなり。
現代語訳
浄土門とは、この娑婆世界を厭い捨て、急いで極楽に生まれる〔という教え〕です。
その国に生まれることは阿弥陀仏の誓いによるのであって、人の善悪にかかわりなく。ただ、仏の誓いを頼みとするかしないかにかかっているのです。それゆえに、道綽禅師は「ただ浄土の一門だけが通入することのできる道である」と言われたのです。ですから今の時代、迷いの境涯を離れたいと望む人は、覚りを得ることの困難な聖道門を捨てて、往くことの容易な浄土門を願うべきです。
この聖道門と浄土門とは〔それぞれ〕「難行道」「易行道」とも呼ばれています。たとえば、難行道は険しい道を徒歩で行くようなもので、易行道は海路を船に乗って行くようなものであると言われています。
足が動かず、目も不自由な人は、この〔険しい〕道に向かうべきではありません。ただ船に乗るときだけ向こう岸に着くのです。
さて、今の時代の私たちは、智慧の眼を失い、修行の足も動かない者です。聖道門という難行の険しい道には、すべて望みを絶つべきです。ただ、阿弥陀仏の本願の船に乗ってのみ、輪廻の海を渡り、極楽という向こう岸にたどり着くべきなのです。

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