御法語
今年も早いもので残すところ二ヵ月となりました。今年の事は今年の内に片づけてしまえるように気合を入れて頑張ってまいりましょう。
さて十一月のお参りの際に読む御法語を紹介いたします。
至誠心
至誠心というは、大師釈して宣わく、「至というは真なり。誠というは実なり」と云えり。ただ真実心を至誠心と善導は仰せられたるなり。
真実というは、もろもろの虚仮の心のなきをいうなり。虚仮というは、貪瞋等の煩悩を起こして、正念を失うを、虚仮心と釈するなり。
総べてもろもろの煩悩の起こることは、源、貪瞋を母として出生するなり。
貪というについて、喜足小欲の貪あり、不喜足大欲の貪あり。いま浄土宗に制するところは、不喜足大欲の貪煩悩なり。まず行者、かようの道理を心得て念佛すべきなり。これが真実の念佛にてあるなり。喜足小欲の貪は、くるしからず。
瞋煩悩も、敬上慈下の心を破らずして道理を心得んほどなり。
痴煩悩というは、愚かなる心なり。この心を賢くなすべきなり。まず生死を厭い、浄土を欣いて、往生を大事と営みて、もろもろの家業を事とせざれば、痴煩悩なきなり。少々の痴は、往生の障りにはならず。
これほどに心得つれば、貪瞋等の虚仮の心は失せて、真実心は易く起るなり。これを浄土の菩提心というなり。
詮ずるところ、生死の報を軽しめ、念佛の一行を励むが故に、真実心とはいうなり。
現代語訳
至誠心については、善導大師が解釈して、「〈至〉というのは〈真〉である。〈誠〉というのは〈実〉である」と言われています。真実心こそが至誠心である、と大師はおっしゃったのです。
「真実」というのは、さまざまな嘘偽りの心がないことをいいます。「嘘偽り」というのは、貪りや憎しみなどの煩悩を起こして、正しい念いを失うことであり、それを「嘘偽りの心」と解釈するのです。
およそ、どのような煩悩も、もともとは貪りと憎しみと〔愚痴と〕を母として生まれ出るのです。
さて、貪りということについては、つつましい貪りもあり、強欲な貪りもあります。いまこの浄土宗で禁じるのは、強欲な貪りの煩悩です。念佛者はまずこのような道理をわきまえて念佛すべきです。これが真実の念佛というものです。つつましければ貪りもさしさわりはありません。
憎しみの煩悩にしても、目上の人を敬い、目下の人をいたわる心を失わずに、道理をわきまえる程度です。
愚痴の煩悩とは、愚かな心のことです。この心を賢くしなければなりません。まずこの迷いの境涯を厭い、浄土を欣って、往生こそが大事だと思いながら〔念佛に〕励み、さまざまな世間の家業のほうを大事だと思わないなら、愚痴の煩悩は無いに等しいのです。少々の愚かさは往生の妨げにはなりません。
この程度に理解しさえすれば、貪り、憎しみなどの「嘘偽りの心」は消え失せて、真実の心は容易に起こるのです。これを浄土宗の「菩提心」と言います。
要するに、俗世間での報いを重視せず、念佛の一行に励むので、真実心と言うのです。
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