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御法語

五月の御法語を紹介いたします。


立教開宗


 おおよそ仏教多しといえども、所詮、戒定慧の三学をば過ぎず。いわゆる小乗の戒定慧、大乗の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧なり。

 然るに我がこの身は、戒行において一戒をも持たず、禅定において一つもこれを得ず。人師釈して、「尸羅清浄ならざれば三昧現前せず」と云えり。

 また凡夫の心は物に従いて移り易し。譬えば猿猴の、枝に伝うがごとし。実に散乱して動じ易く、一心静まり難し。無漏の正智、何によりてか発らんや。もし無漏の智剣なくば、いかでか悪業煩悩のきずなを断たんや。悪業煩悩のきずなを断たずば、何ぞ生死繋縛の身を解脱する事を得んや。悲しきかな、悲しきかな。いかがせん、いかがせん。

 ここに我等ごときはすでに戒定慧の三学の器にあらず。この三学の外に、我が心に相応する法門ありや、我が身に堪えうる修行やあると、よろずの智者に求め、諸の学者に訪いしに、教うるに人もなく、示すに倫もなし。

 然る間、嘆き嘆き経蔵に入り、悲しみ悲しみ聖教に向いて、手ずから自ら披き見しに、善導和尚の観経の疏の、「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、これを正定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に」という文を見得て後、我等がごとくの無智の身は、偏にこの文を仰ぎ、専らこの理を憑みて、念々不捨の称名を修して、決定往生の業因に備うべし。


 およそ仏の教えは数多くありますが、つまるところは、戒定慧という三種の修行方法以外にありません。すなわち、小乗仏教の戒定慧、大乗仏教の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧であります。

 ところが私自身は、戒の修行については一つの戒すら守ることができず、禅定については一つもこれを体得していません。ある高僧が解釈して、「戒が浄らかでなければ、対象に心を集中する境地は現れてこない」と言われました。

 また、凡夫の心は物事を見聞きするにつれて移ろい易いのです。たとえば、猿が枝から枝へと渡っていくようなものです。本当に散乱して動きやすく、心を静めることは難しいのです。〔そんな時、〕煩悩に染まらない正しい智慧が、どうして起こるでしょうか。もし煩悩に染まらない智慧の剣がなければ、どうして悪業や煩悩という絆を断ち切ることができるでしょうか。もし悪業や煩悩という絆を断ち切らなければ、どうして迷いの境涯に縛り付けられている身を逃れることができるでしょうか。本当に悲しいことです。本当にどうしたらよいのでしょうか。

 そこで、「我々のような者は、もはや戒定慧という三種の修行の器ではない。この三種の修行方法の他に、私のような者の心にふさわしい教えはあるだろうか、私のような者の身に可能な修行はあるだろうか」と、多くの智者に教えを請い、様々な学者を訪ねましたが、教えてくれる人もなく、示してくれる友もありませんでした。

 そういうわけで、嘆きつつ経蔵に入り、悲しみつつ仏典と向き合い、自ら手にとって読んだところ、善導和尚の『観経疏』の「心を一つにしてひたすら阿弥陀仏の名号を念じ、立ち居起き伏し、時間の長短を問題とせず、片時もやめない、これを正しく定まった行いと名づける。それはかの阿弥陀仏の本願に順っているからである」という一文を知ることができました。それからというもの、「我々のような無智の者は、ひたすらこの文を仰ぎ敬い、専らこの道理を頼みとして、片時もやめない称名念仏を修めて、往生を決定させる因として

準備するべきである」〔と深く心に留めたのであります。〕

 
 
 

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